訃報船井哲良氏が死去船井電機創業者、9

訃報船井哲良氏が死去船井電機創業者、90歳

船井電機の創業者で、安価に製品を大量生産する独自の生産体制を築いた船井哲良ふないてつろう氏が4日午後4時7分、肺炎のため大阪市の病院で死去した。90歳。神戸市出身。葬儀告別式は親族で行う。喪主は長男哲雄てつお氏。後日、お別れの会を開く予定。船井電機が5日発表1951年にミシンの卸問屋を営む個人商店を開業。国内製ミシンの海外輸出などを手掛け、ラジオの製造販売に乗り出し、61年に船井電機を創業した。テレビやレコーダーなどにも事業を広げた。トヨタ自動車の工場に学び、製品の設計から生産、販売を一貫して手掛けて費用を抑える手法を確立。

船井哲良ふないてつろう

年1月24日、兵庫県神戸市生まれ。

主な職歴

年有限会社東洋ミシン商会に入社

年東洋ミシン商会を退社し、個人経営の船井ミシン商会を創業翌年、法人組織化

年船井ミシン商会の社名を船井軽機工業株式会社に変更し、トランジスターラジオの生産を開始

年船井軽機工業のトランジスターラジオ部門を分離独立し、船井電機株式会社を設立。代表取締役社長に就任

船井電機大証第二部に上場

船井電機東証大証第一部に上場

船井電機会長に就任

船井電機相談役に就任現任

主な受賞歴

年米国ケンタッキー州カーネル称号

紺綬褒章以後、年まで毎年受章

徳島県三好市名誉市民称号徳島県三好市のサイトへリンクします

徳島県表彰以後、毎年受賞

京都大学名誉フェロー称号京都大学のサイトへリンクします

主な社会貢献活動歴

年財団法人現、公益財団法人船井奨学会を設立。理事長に就任現任

年財団法人現、公益財団法人船井情報科学振興財団を設立。理事長に就任現任

京都大学に船井哲良記念講堂及び船井交流センターの2施設を寄贈年完成京都大学のサイトへリンクします

徳島県三好市に土地旧船井電機製造子会社工場跡地を寄贈徳島県三好市のサイトへリンクします

京都大学大学院の合宿型研修施設船哲房の建設費用を寄附年完成

八歳でも現役社長!船井電機社長船井哲良の終わらない挑戦桐山秀樹著講談社

古田英明が聞く経営者の軌跡3船井哲良の成長への情熱古田英明著総合法令出版年

四十歳で五つの会社の社長になる船井哲良著パブリッシング年

ミシンの世界からトランジスターラジオで電機業界に入ったとき、絶対に必要だったのがトランジスターとバリコン可変コンデンサーだ。だが、これらを供給できるメーカーはごく限られており、なかなか思うようには入手できなかった。トランジスターラジオ用のバリコンはミツミ電機しか作っておらず、日本の生産量は事実上ここで決められていた。バリコンがなかったらラジオが作れない。

船井はそのラジオ用のバリコンを独占的に製造していたミツミ電機に、部品を分けてもらうために乗り込んだ。だが、応対に出た営業課長の森部一夫氏後にミツミ電機社長は、実績がない船井など相手にしてくれない。早く帰れと言わんばかりである。ミツミ電機としても、既存の得意先からの受注をこなすので精一杯の忙しさだった。

船井は部品の前金を手に、一歩も動こうとしなかった。東洋ミシン商会の店番頭時代、粘り強く何時間も動こうとしないお客と商談し続けた経験がある。そのときに学んだことを活かしたのだった。まずは野球のような柔らかい話でうちとける。相手が少し心をひらいたら商談に入る。商談が難航したら、次は相撲の話、押したり引いたり。

時間が経つと、やはり相手もだんだん親身になってくる。まだラジオを一度も製造していない船井が語るのは夢しかない。我は将来、月産10万台のラジオを作る会社になる。バリコンも大量に仕入れるようになるから、何とか売ってほしいと執念で頼み込んだ。夢を実現するためには、どうしてもバリコンが必要だった。

森部課長はとうとう、根負けしたように個分の前金を受け取り、領収書をくれたのである。前金を申し出たのは、絶対に部品を渡してもらうための保証であり、継続して部品を出してもらうための保証でもあった。

領収書をもらったら、船井はさっそく社員をミツミ電機に毎日行かせて催促した。お金は払っているから、商品をいくらか出してくれ。そこまでしなければ供給を確保できない物不足の時代であった。

こうして船井はバリコンをミツミ電機から供給してもらえることになり、大阪の今里に設けた工場で昭和34年5月トランジスターラジオの生産を開始した。記念すべき第1号となったのは6石1バンドAMのトランジスターラジオであった。

沖縄からのラジオ輸出という奇策

今里工場でのトランジスターラジオの生産は順調で製品輸出も好調だった。もちろんこれは船井軽機工業だけの話ではない。他の大手家電メーカーもトランジスターラジオの量産に取り組んでいたため、日本国内での生産は過剰になってきた。しかもそのほとんどはアメリカに輸出されていた。

このような状況が続く中で、最大のマーケットであるアメリカでは日本製トランジスターラジオの輸入阻止運動が起こった。このことを受け、通産省当時は対米輸出を規制する狙いからミシンと同じくトランジスターラジオにもクオータ制を導入した。船井が今里工場で生産を開始した翌年の昭和35年4月のことである。生産を始めたばかりで実績がない船井軽機工業には、生産枠がほとんど認められない。好調な滑り出しを見せたかに思えたトランジスターラジオ事業は、いきなり大きな壁に突き当たってしまったのである。

そんな時、船井にあるアイデアがひらめく。沖縄でトランジスターラジオを生産し、そこからアメリカへ輸出するという奇策である。

当時の沖縄はアメリカの統治下にあって日本の施政権がおよばない地域だった。そうであるならば、通産省の規制外であり、クオータ制も適用されない。

現地に飛んだ船井はその場で契約を交わし、現地の食品会社と、商社との3社合弁で琉球軽機工業株式会社を設立した。そして食料品の工場を電気製品の工場に作り変え、沖縄でトランジスターラジオの製造を開始したのである。クオータ制の施行からわずか4か月後のことであった。

沖縄からの輸出なら出荷制限を受けることはない。こうしてトランジスターラジオはこれまで通りアメリカに向けて大量に輸出された。

船井電機株式会社の誕生

ミシンからトランジスターラジオへの業種転換は見事に成功した。トランジスターラジオの生産は急拡大し、船井がミツミ電機の森部氏に語った月産10万台の夢は、わずか数年で実現したのである。

昭和36年8月9日、船井は船井軽機工業からトランジスターラジオ部門を分離独立させて船井電機株式会社を設立し、今里工場に本社を置いた。これは名実ともに家電製品分野に進出するという宣言であるとともに、今日へと続く船井電機の歴史がスタートした瞬間であった。